熊野古道特集

世界遺産熊野古道を歩く

熊野那智大社と那智の滝

那智の滝

大雲取山、烏帽子山、光ヶ峯、妙法山を総称して「那智山と呼ぶ。しかし・「紀伊名所図会」は、妙法山を「那智山峰の第一なり」と載せたように、また地元では、子供が泣き出すと脅し付けるように、「そら、那智山が曇ってきたぞ!」といい妙法山を指すので、いつの頃jからか、那智山というと妙法山のこと、というイメージが出来てしまった。原生林におおわれたその妙法山中腹から、神の代の激情をほとばしらせるかのように、白い一筋の輝きが落下する。花山院が「岩走る滝と読み、天つ水と仰がれる那智の大滝である。この大滝を熊野の海上から見る漁師たちは、女性の隠し所を意味する言葉で言う。山中を垂直に落ちるこの輝きは、黒潮に乗ってやって来た人々の目をひき、そこに聖なる力が宿ると見られたに違いない。
参照 向陽書房 熊野古道 中辺路と大辺路より

熊野古道案内”那智大社周辺へ”

那智勝浦の熊野古道特集”熊野那智大社”

 表参道の473段の石段を登った所に熊野那智大社の境内が広がります。那智原始林に背後を包まれて、丹塗りの鮮やかな拝殿と五棟の社殿が建ち、中でもひときわ大きな第四殿に祀られるのは主神の熊野牟須美神。奈良時代までは本宮の神とされていた神である。熊野那智大社は奈良時代までは速玉大社の支配下にあり、文献などにも長く表われませんでしたが、熊野三山の一つとして有力な神となったとき、古い神を復活させて主神にしたと考えられます。

 社殿東側のひときわ目立つ大楠は平重盛手植えと伝えるもので、樹齢800年。この楠には病気平癒の霊力があるとされ、幹に開いた空洞で胎内くぐりをする人が多い

那智大社周辺コース案内

熊野古道”熊野本宮大社”

本宮大社社殿

熊野本宮大社は元々は熊野川の支流である音無川と岩田川の合流する中州の大斎原に在りましたが明治22年の大洪水の為に上四社以外の社が流失し残った四社を現代の丘の上に移動させました。主祭神は家津美御子大神(スサノオノ尊)を主祭神とし証誠殿を第三殿として中央に祀りしその西に熊野夫須神(イザナミの大神)・事解之男神を祀る第一殿、速玉之男神・イザナギの大神を祀る第二殿、反対側に天照大神を祀る第四殿を合わせて上四社と言います。

本宮大社周辺のコース紹介

熊野古道”熊野速玉大社”

速玉大社

熊野速玉大社は熊野川河口近くに鎮座し熊野年代記に寄れば、最初は神倉山に天降りました熊野三所権現(熊野速玉大神、熊野夫須美大神、家津美御子大神)を景行年間に現代の場所に遷座し新しいお宮なので新宮となずけられました。神倉山の元宮は現代は速玉大社の摂社となり神倉神社と呼ばれています。御神体はゴトビキ岩と言われており神々が降臨したと言われる巨岩です。

熊野古道”高野山”

高野山リンク集

和歌山見所.NET”高野山”

 高野山は和歌山県伊都郡、紀ノ川の南方、海抜100メートルの山上にあり、周囲を高峰に囲まれた東西6キロ南北3キロの盆地である。
 今から1200年前の昔、大同元年(806年)弘法大師が唐より帰朝後、真言密教の道場を開くため、都塵を離れた幽玄の地を紀伊、大和の山中に探し求め、この地に嘱目なされた。弘仁7年(816)、ここに真言道場を開きたき旨を、時の帝、嵯峨天皇に上奏して高野の地を賜ったのである。当時賜った地域は広範なもので寺領一万町歩といわれている。翌同八年、諸弟子及び工人等多数を伴い登山され、開山に着手なされた。これが高野山金剛峰寺のはじめである。
 承和2年(835)、伽藍の完成を待たずして大師御入定があり、高弟の真然大徳がその後を継ぎ伽藍を完成。以来仏教各流の衆禅の大道場として栄え、徳川時代の正保の頃には大小2000に余る寺坊が廂を並べた。この反面には数々の火災と内紛等による興亡の岐路に立つことも多々あった。その後、元禄の大整理、明治維新の大変革を得て今日に至る。
      高野山の現況
 明治維新に際し、寺領及び外山の森林等を全て国家に奉還し、山上を以って境内と定めた。現在は伽藍と奥之院の両壇を中核に総本山のほか117ヵ寺あり(うち宿坊寺院53ヵ寺)、これを主体として約1000戸の商家と、4000の人口が山上に住み、全高野町勢の半数を占めている。また高野町の各機関は総てこの山上に置かれ、全国でも稀に見る境内街を形成している。

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